エムツーという、ゲーマーならばいまや誰でも名前を聞いたことがあるであろう会社がある。

 『エムツーショットトリガーズ』シリーズを始め、かつてのクラシックゲーム(いまも古びていないという同社社長の意向で、あえて本記事内ではレトロゲームとは呼ばない)をつぎつぎと最新鋭機種で遊べる形に移植し、メガドライブミニやPCエンジンminiといった機種に収録された豊富なタイトルの移植にも携わった会社だ。

 いまや「ゲーム移植といえばエムツー」と言われるほどに、そのネームバリューと技術力を高めた同社。そんなエムツーがこの8月で30周年を迎えたとのことで、同社の立ち上げ人にして代表取締役である堀井直樹氏に、この30年を振り返るインタビューを敢行した。

エムツー30周年記念インタビュー!“好き”を貫く堀井直樹社長といっしょに、クラシックゲーマー感涙必至の30年を振り返る
“面白さ至上主義”を掲げ、おもしろいゲームをたくさんの人に届けることを第一としてきた堀井社長。

堀井直樹氏

エムツー代表取締役社長

 なお、当インタビューではアーケードゲームを含め、30年分ものゲームの思い出を振り返っていくことになる。当時を知る人には懐かしく思い出してもらいつつ、当時を知らない人には新たな学びの機会として、ゲーム好きがそれを貫き続けたらどうなったのかを見届けていただきたい。

好きを貫き始めたことと、会社設立の経緯は?

――まずは30周年ということで、おめでとうございます!

堀井ありがとうございます。ファミ通さんも35周年ということで、おめでとうございます。

――ありがとうございます。早速なのですが、30周年を迎えた率直なご感想を伺えますか。

堀井本当にここまでこられるとは思っていなかったです。偶然に助けられた、運に助けられたという面があるかと思います。

 好きなことをただひたすらやってきたのですが、それが世の中に求められたか、少なくとも居場所があったということに対して、喜びを噛みしめています。

――30年やってこられて、貫き続けてきたポリシーについて改めて聞かせていただけますか。

堀井自分がゲームが好きということで始めたことですので、その好きをそのままストレートに出すようにしています。

――“好きを出す”ですか?

堀井言ってしまえば、自分の好みのゲームを出すということになりますね。自分が遊んでおもしろいと思うものを世に出していく、ということです。

――なるほど。ストレートですね。せっかくの機会なのであえて聞いてしまいますが、エムツーさんの社名の由来を教えてください。

堀井じつは、何だったのかよく覚えていないんです。アルファベットの"M"に数字の"2"の語感がよかったというのもあるのですが、当時読んでいた漫画にM2という会社が出てきたりとか、“ミリオンメッセージ”であったりとか、記憶がいろいろあってよく分からないことになっていまして……。

――当時の会社法の都合で、アルファベットでの社名登記ができなかったのでカタカナの"エムツー"表記になったのですよね。

堀井カタカナの理由はそれですね。せっかくの30周年ですし、当時読んでいた漫画が頭の中に残っていて、“ミリオンメッセージ”とかにかこつけたんだろう、ということにしておきますか。

――なんといいますか、エムツーさんらしい感じがしますね。では続いて、この30年を振り返っていただこうかと。まず、エムツー設立の経緯についてお聞かせください。

堀井僕が10代のころに、周りに会社を作るブームがあったんですよ。何年か上の人たちが、わりと気楽に会社を作って商売を始めていたんです。

 僕が当時よく遊びに行っていた先輩の家でも同人ソフトを作っていて、それが雑誌『テクノポリス』(徳間書店)に載ってバカ売れしたんです。遊びに行くたびにその方は、郵便小為替を郵便局に突っ込んで、それがお金になって返ってきたらまたそのお金でゲームを作る、という暮らしをしていたんです。

――その辺も時代を感じさせるやり取りですね……。

堀井それで僕らも周りを見渡してみて、「やれるなぁ」と思ってしまったわけです。それで、同人ゲームをNECのPC-88で作ってみたんです。

――先輩の例を見るに、当時は同人ゲームを出せば売れる、みたいな風潮だったのでしょうか。

堀井どうでしょうね。その先輩方のところは、そのあと全員プロになったような集まりでしたからね。音楽をやっていた人は、『タクティクスオウガ』(クエスト/1995)や『ファイナルファンタジーXII』(スクウェア・エニックス/2006)の音楽を作ることになる岩田さん(コンポーザー・岩田 匡治氏)や崎元さん(コンポーザー・崎元 仁氏)だったんです。そこにいた人たちがすごかったこともあって、それを見ていた僕らも「やってやるか!」という気持ちになったのかもしれません。

――当時はそういった人たちと、どんなコミュニティーがあったのでしょうか。

堀井僕は直接家に遊びに行っていましたが、当時はコミュニティーとしてはパソコン通信(アスキーネット、ニフティサーブ)が存在していました。当時を振り返るとファミコンがバカ売れしていて、『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』(エニックス/1988)が社会現象になるほどヒットしていましたね。

 そんななかでパソコン上でゲームを作りつつ、ネット上で同好の士が情報交換して、サークルができて、拠点になりそうな親御さんの理解があるメンバーの家に入り浸るようになっていく……という流れを目にしていました。

――端から見ると、自然とゲームを作りたいどうしが集まってきていたような感じだったんでしょうね。ちなみに堀井さんがゲームを作りたい、と思われたきっかけは何でしょうか。

堀井スペースインベーダー』(タイトー/1978)に触れて以来、僕は一生ゲームを遊びながら暮らしたいと思っていまして。ゲームを遊び倒して暮らすためには、大人になってもゲームで遊んでいて怒られない職業に就く必要があると考えたんです。

 でも、いまとなってもゲームで遊んでいると怒られたりするのは不思議ですね。

――当時からロジカルに将来を考えていたんですね。

堀井無意識みたいなところもありましたけどね。ゲームを作ること自体がおもしろくて、また研究と称してゲームを遊べますし。会社を作ることを考えてからは、世の中には"経費"という素晴らしい仕組みがあって……。

――ゲーム制作会社だからゲームも資料として経費に……いやこれ以上は触れないでおきましょう。それが10代のお話として、会社を設立したときのお話を伺えますか。

堀井会社を設立したのは、僕が20歳のときです。そういう周囲からのシャワーを浴びていたのは、高校生のころからですが。

 僕が20歳くらいのころ、1990年から99年にかけてですが、会社法が変わって有限会社が資金が300万円ないと作れない時代になっていったんです。その前は10万円で済んだのですが、当時の300万となると途方もない金額ですから、飛び込みで10万円のうちに設立したんです。

――それも勢いというか、設立の後押しになってくれたのかも知れませんね。法改正が早まっていたら、エムツーさんは会社と言う形ではなかったかも……。

堀井作ろうと思ったらすぐに会社名を登記書に書いて、持っていったら「ココがおかしい」「コッチがおかしい」と、2ケタ回は怒られて書き直して、ようやく登記が通って会社ができた感じでした。

エムツー30周年記念インタビュー!“好き”を貫く堀井直樹社長といっしょに、クラシックゲーマー感涙必至の30年を振り返る

会社創設後、意外なあの大作にも携わっていた!

――では会社設立後は、すぐにゲーム開発に着手したのでしょうか。

堀井同人ソフトを作っている人たちは当時、作っているとアプローチを受けることもありましたが、ゲーム会社へのデモテープやデモゲームの持ち込みをよくしていたんです。

 そこで僕らもアタリゲームズの家庭用移植担当の子会社であるテンゲンさんに、アーケードゲームの『ガントレット』(アタリゲームズ/1985)の移植版をパソコンで作ったものを持ち込んでみました。

――そこでテンゲンさんに認められて、エムツーさん最初の大きな活動として有名なメガドライブ版の移植を担当することになったわけですか。

堀井それが、そのころはまだ拙いゲームの作りでして……。込み入った話をすると、アーケード版の『ガントレット』をパソコンなりメガドライブなりでちゃんと作ろうとすると、性能が足りなかったんです。

 そこでソフトウェアで、スプライト(※ゲーム内に表示・描画される物体のこと。同時に多く表示できるほどゲームの動きが滑らかになる)の表示数をなんとか増やす作業が必要だったんです。ところがそのプログラムに欠陥があり、画面にノイズが走っていたんですけど、そのノイズを見たテンゲンのプログラマーの方が「こいつらはそのままじゃできないことを、工夫して何とかしようとしている」と見抜いて、咎めず泳がせておこうと社長さんに進言してくださったらしいんです。

――泳がせておこう……(笑)。すごくいい話じゃないですか。

堀井それで泳がせてもらって、エムツー1作目となるメガドライブ版の『ガントレット』が1993年に出せたわけです。

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『ガントレット』

――エムツーさんの公式ホームページの沿革ですと、そのあと98年に本格的に活動開始とありますが……。

堀井そのもう少し前に1995年にゲームギア版の『ガンスターヒーローズ』(セガ・エンタープライゼス/1993)を終えて、キングレコードさんから『どきどきポヤッチオ』(キングレコード/1998)のお仕事をいただいてから、わりと会社らしいお仕事のしかたを始めました。

――『ガントレット』以降に技術力が認められて、キングレコードさんに会社として認められていったという感じですかね。

堀井『どきどきポヤッチオ』は、近藤敏信さんという、『海腹川背』(TNN/1994)のキャラクターデザインをされた方が作っていたのですが、開発が難航していたようで……。そこでキングレコードさんが誰かをヘルプに入れることを考えていて、人材を探していたんです。

――そこでエムツーさんに白羽の矢が立ったと。

堀井近藤さんが、トレジャーの菊池哲彦さんという『ガンスターヒーローズ』のキャラデザ担当の方とご友人で、メガドライブ版の『ガンスターヒーローズ』についてもよくご存じだったんですね。それを僕らがゲームギア版で作ったものを見て、メガドライブのゲームをここまでゲームギアで再現しようという怨念というか熱意を評価してくれて、キングレコードさんに推してくださったらしいです。

――人と人との意外なつながりが、ここでも活きたんですね。意外なつながりは、当時ほかにもあったのでしょうか。

堀井さきほど、あとで『ファイナルファンタジーXII』で音楽をやることになったという人がいる集まりがあったと言いましたが、久しぶりに秋葉原を散歩していたらその集まりにいた岩田さんがいらっしゃって。

――とんでもないお方の名前が急に出てきましたね。

堀井そこで「堀井くん最近なにやっているの?」という話になって、「メガドライブで『ガントレット』を作っているんですよ」と話したら、「いいね!」と岩田さんと崎元さんが曲を担当してくださることになったんです。 

――すごい経緯で、いい話ですね……。

堀井メッセサンオーさんの海外フロアで久しぶりにお会いしたのを、よく覚えています。当時はあそこに行くと、だれかしら同志がいるという感じだったんですよね。

――そしてそのあと、公式沿革によると2005年に『SEGA AGES 2500 Vol.20 スペースハリアーII ~スペースハリアーコンプリートコレクション~』を担当、とのことですが。

堀井その前に2005年までのあいだに、ゲームギア版『ガンスターヒーローズ』から始まったご縁で、セガさんのWindows版『サクラ大戦』(セガ・エンタープライゼス/2000)を担当していました。さらにそれをベースとして、ドリームキャスト版の『サクラ大戦』もやらせていただきました。

――え、それは意外なタイトルですね。セガサターンからPCとドリームキャストへの移植を、エムツーさんが手掛けていらっしゃったんですね。

堀井当然ながら解像度を上げなくてはならなかったので、がんばりましたね。当時は『サクラ大戦』チームの皆さんが「締め切りは守れよ?」と言ってくるなか、『シェンムー』(セガ・エンタープライゼス/1999)が延々と遅れていくのを見ていました……。

――あはは(笑)。その辺の愚痴を聞いてしまうと、遅らせるわけにはいかなかったでしょうね。といいますか、『サクラ大戦』もまたエムツーさんにとって思い入れのある作品だったのでは。

堀井かなり大きな転機でした。サターンは、いま見ると画面の解像度がさすがに荒いんですよ。それをパソコンで見られるようにしてくれというお話をいただいたときに、『サクラ大戦』自体はそんなにやり込んではいなかったのですが、“絵を綺麗にして美しくリメイクする”という点では興味があったんです。

 さらに、それにどれくらい手間がかかるものなのかというのも知っておきたかったんです。その後のモデルケース的なお仕事にもなったと思います。

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『サクラ大戦』

――そしてその流れから、『SEGA AGES 2500』シリーズに……。

堀井いえ。その前に、プレイステーション2版の『セガラリー2006』(セガ/2006)の初回生産特典となる復刻版『セガラリー・チャンピオンシップ』を開発させていただくことになったんです。セガさんが自社ハードから撤退されたあとに、プレイステーション2向けにソフトを出すことになって、アーケード基板のMODEL2用タイトルを移植したいという話になったんですね。ここで我々が手を挙げたんです。「MODEL2をやってみたいなー」ということで。

――セガさんのすさまじい技術力を考えると、MODEL2からの移植は、難易度が相当高そうですが。

堀井そこはまぁ、「やれそうだなぁ」と思ったから手を挙げたんです。とは言え難易度は確かに高かったですね。

 あと、MODEL2自体が「これで色を出しているのか!?」というくらいなハードウェアだったんです。基本的にはカラーのテクスチャーを貼れないけど、工夫すると出る、といった感じで。これであれだけのクオリティーのタイトルを出していたのかと思うと、「セガの皆さんすごいな」とびっくりしまして、セガさんへの敬意がさらに相当上がりました。

――あの辺の基板はオーパーツみたいなものですから……。それをPS2に移植となると、知っている人は正気を疑うのでは。

堀井まずセガさんが作ったPS2版『バーチャファイター2』の移植用コンバータをベースに改良させていただきました。一回分かればできるようになるのは分かるんです。「なるほど、こう使うのか!」みたいに。セガの技術力は、やはりすごかったです。

 とはいえ、エムツーとしては、当時のそういったセガさんのハイエンドなアーケードゲームの移植を、けっこうな完成度でできるということが証明できたわけです。その流れで、3Dで『スペースハリアー』(セガ・エンタープライゼス/1985)や『ファンタジーゾーン』(セガ・エンタープライゼス/1986)が、他社さんによりリメイクされたあとで、「昔そのままの完全再現のものを出してみたい」と、セガの奥成さん主導で仕切り直しになった際、そこで我々が手を上げたわけです。

――当時の評判としては、3Dリメイクはあまり好評ではなかったですよね……。

堀井『スペースハリアー』を3Dでリメイクして、それを2500円で販売するとなると、わりかし無理が出ても仕方ないですよね。いじるよりは同じにしようと『SEGA AGES 2500 Vol.20 スペースハリアーII ~スペースハリアーコンプリートコレクション~』が動き出したわけです。

エムツー30周年記念インタビュー!“好き”を貫く堀井直樹社長といっしょに、クラシックゲーマー感涙必至の30年を振り返る
『SEGA AGES 2500 Vol.20 スペースハリアーII ~スペースハリアーコンプリートコレクション~』。

エムツーをプロデュース(?)した男、奥成氏

――ここでようやく公式沿革に戻りますね。その作品以降、クラシックゲーム移植ならエムツーという評価を固めていくと。

堀井そうなりますね。ただ、当時のことを考えると 何か仕事をするときに打ち立てた方針に沿ってお話しできるクライアントがセガさんだったというのが、すごく大きかったと思います。

 言ってしまえば、奥成さんがスキモノだったという話になるんですけど。

――スキモノ……平たく言いすぎじゃないですかね。分かりますけど。

堀井こちらが細かくこだわろうとしていることに対して、担当者さんが違うと「そこは分からない」と言われることのほうが多いんです。でも奥成さんなら、何でも理解してくださったんですよ。

 それをゲーム全体に対して反映すると、そのこだわりを全部は知らないプレイヤーさんも、部分的には知っているから喜んでいただける、という形になったんです。その積み重ねが、『SEGA AGES 2500』で得られた財産だったと思います。

――奥成さんはとにもかくにも、一貫しているといった感はありますよね。

堀井非常に揺らぎない人です。そして本当にスキモノで、カッコイイ言いかたをするなら「スタ●ド使いは引かれ合うッ!」みたいな、類は友を呼ぶ的な出会いだったのではないかなあ。

――お互いどのスタ●ドを持っていたのですか?。壊れたものを直すとしたら、“クレイジーダイ●モンド”とかですが。

堀井自分はもっと三枚目キャラにしておきたいところですけどね。奥成さんのスタ●ドは……分からないなぁ。物の過去を見て、体系的に役割を捉えられる能力をお持ちですよね。

 ビジネス的に無理があることはお互いに当然あって、でも根本的なところでは理想を共有できる人だと思います。あわよくばねじ込みたいものも「無理せず機を待とう」とか、「これが無理なら代わりにこういうのはどうだろう」とか、さっと出せる相手がセガさんにいらっしゃったというのが、すごいことだったのではと思います。

――仮に奥成さんがいらっしゃらなかったら、エムツーさんの現在も大きく違っていたかもしれませんね。

堀井奥成さんから『SEGA AGES 2500』のお話をいただいたときに、僕たちがセガさんの作品で前からやりたいと思っていたことを言ったら、すごく食いついてくださったんですよ。

 同じことをもっと前に別のセガの方に言ったときには、「それって、メガドライブの『スーパーファンタジーゾーン』(サンソフト/1992)と何が違うの?」と言われたんです。

――それは、家庭用ゲーム機のセガ・マークIIIで出た『ファンタジーゾーンII オパオパの涙』(セガ・エンタープライゼス/1987)のお話ですかね?

堀井そうです。セガ・マークIIIは映像表現能力が劣るので、アーケードゲームだった初代『ファンタジーゾーン』のパステルカラーの素晴らしいグラフィックと比べ劣るものになっていたんです。

 僕はそれを、アーケード基板で『II』として作り直したいということをセガの何名かの方に伝えたのですが、奥成さんだけが「それ、いいですね!」と言ってくださったわけで。その差が、きっと大きかったんでしょうね。

――沿革によると2006年以降は、Wii バーチャルコンソールのメガドライブシリーズや、アーケード(セガタイトル)シリーズ、マスターシステムシリーズなどに注力していくことになったようですが。

堀井そのあいだに『SEGA AGES 2500』もずっとやっていましたけどね。奥成さんとの一連のお仕事が続いていったわけです。

 開発事例のタイトルを見ていただくと、かなりの本数を担当していたことが分かっていただけるかと。

――その期間で、とくに思い入れや思い出があるタイトルなどはありますか?

堀井ふたつあります。まず、『SEGA AGES 2500』を出すときに2タイトル同時で出したい、というお話があったんです。先に触れた『スペースハリアーコンプリートコレクション』と、『Vol.21 SDI&カルテット ~SEGA SYSTEM 16 COLLECTION~』を同時に出したいということになったんですね。

 僕はそれまでの奥成さんの職歴を理解していなかったので、「それくらいのことができないと、駄目なんだな」と思っていたのですが、後で知ったところでは、奥成さんはそれは何の気なしにおっしゃったそうで……。

――とんでもないデス案件じゃないですか。

堀井当然死にかけましたけど、足腰は鍛えられたかな、と。別件で依頼されていた『オレたちゲーセン族 イー・アル・カンフー』(ハムスター/2005)も同じ日に発売だったので、僕らが関わったパッケージゲームが同日に3本店頭に並んだんです。それを見て、「これからの人生でもこんなことはないだろうなぁ」と思ったのを印象深く覚えています。

――それはすごい……。もうひとつは?

堀井さきほど触れた、アーケード版の『ファンタジーゾーンII』を生きているあいだにどうしても作りたいというのを、PS2の『SEGA AGES 2500』最終作で実現できたことです。

 そのときにはアーケード版を作ってPS2版にしていたので、当然基板もあったわけです。その基板を使って、ゲームセンターの池袋GIGOさんで体験会ができました。「これでもう人生終わってもいいな」、と思えるくらいの、いい目に遭うことができました。

――『ファンタジーゾーン』自体にも、かなり思い入れがあるのですね。

堀井そうですね、『ファンタジーゾーン』が好きでセガ・マークIIIを買ったくらいですし。当時はまだ気付くことができずに、上っ面だけを見ていたと思うのですが、グラフィックが本当にすさまじいセンスでして。

 ボスキャラのデザインなども、主人公を見ていないぼーっとした目の顔がとても印象的で、そういったところに惹かれていたんだと思います。

――システム的にも、惹かれるところがあったのでしょうか。

堀井自由に左右にスクロールして遊べるため、遊びかたの幅が広かったのが魅力でした。縦スクロールのシューティングと異なり、クリアー時間が人によって圧倒的に異なるんです。

エムツー30周年記念インタビュー!“好き”を貫く堀井直樹社長といっしょに、クラシックゲーマー感涙必至の30年を振り返る
『SEGA AGES 2500シリーズ Vol.33 ファンタジーゾーンコンプリートコレクション』に収録された『ファンタジーゾーンII』。
(※画面は『3D ファンタジーゾーンIIダブル』)

――これまでの生涯を通しても、『ファンタジーゾーン』がいちばん思い入れがある作品ということになります?

堀井それは……会社設立前あたりだと、アタリさんの『ガントレット』や『マーブルマッドネス』(アタリゲームズ/1984)あたりのゲームに薫陶を受けたので、この辺りも挙がるかと思います。

 『マーブルマッドネス』はクォータービューの空間の中に球が置かれていて、筐体にはトラックボールとスタートボタンがひとつずつあるという、何をすればいいのか一発で分かるゲームになっていたんです。あんなにシンプルで分かりやすく、何をすればいいのか人に伝えられる筐体のデザインというのは、この世にほかに存在しないと思います。作者のマーク・サーニー氏はプレイステーションシリーズの開発者として名を馳せていますが、このゲームを作っている時点で僕にとっての神様みたいな人なんですよ。

――『マーブルマッドネス』の筐体は、エムツーさんのオフィスにも置いてありますね! 話を戻しますと、エムツーさんを語るうえでセガさんは外せない存在なのですね。

堀井セガさんには、ずっと育てていただいた気がします。奥成さんがやってくださったことなのですが、奥成さんが最初に、ファミ通のゲーム記事の紹介欄に、エムツーをゲーム開発会社として載せてくれたんです。

――おお、それはすばらしい。すると記事のほうにも、顔出しをされたのでしょうか。

堀井僕はコミックマーケットで買い物がしづらくなるから顔出しはしたくないと言っていたのですが、奥成さんは「出たほうがいいですよ」と延々と説得してくれまして、顔出しするように導いてくださいました。

 奥成さんはエムツーの裏広報と一部から呼ばれていまして、何か仕事をしたらそれをおもしろおかしく主張したほうが見てもらえる、ということを僕に教えてくれた人でもあるんです。

――エムツーのブランディングのために、堀井さんのユニークさを世に出そうとしてくれたわけですかね。

堀井その辺は本人にお聞きしないと、ご慧眼をお持ちだったのかは分かりませんね。おもしろいからやっていた、という可能性も大ですけど。

 奥成さんはファンの心を掴むというか、ファンの目線で物事を見られる方なんですよ。そして、エムツーという会社なら大丈夫、というファンからの評判を作っておけば、後の自分が描く展開にも役立つと考えていたのかも知れません。

――そうなると社名がシンプルな分、堀井社長が前に出たほうがよいと思われたのかもしれないですね。いまやエムツーさんはファンの皆さんと距離が近い会社だと思いますが、それはこのころから培われてきたということですね。

エムツー30周年記念インタビュー!“好き”を貫く堀井直樹社長といっしょに、クラシックゲーマー感涙必至の30年を振り返る
エムツーをプロデュースしたというセガの奥成洋輔氏。奥成氏から寄せられたコメントは、記事の後半にて掲載。

新旧ハードの違いと、いまも変わらないポリシー

――思い入れがある作品が出たところでお聞きしたいのですが、開発者目線でゲームが作りやすかった、やりやすかったハードや、逆に苦手だったハードなどはありましたか。

堀井開発していて圧倒的におもしろかったのは、メガドライブですね。その前に我々がX68000という、同じCPUを搭載したハードを使っていたことが影響していたと思います。

 感心したハードとなると、プレイステーションとドリームキャストかなあ。どちらも開発者目線で環境を構築していたんです。絵を出すまでに我々がしていた準備というのはどの会社も似通ったことをしていまして、そこをライブラリー化して配っていたのがプレイステーションからだったと思います。

――ゲーム開発の環境が大きく変わりつつあった時期なんですね。

堀井当時は反骨精神があって、そのライブラリーより速いコードを書きたいなんて思ってもいましたけど、プレイステーションとドリームキャストはこれらを徹底的にやっていたんです。

 たぶんドリームキャストは、初代プレイステーションでの評判を参考にしていたんじゃないかと。セガさんのライブラリーは本当に使いやすくて、そこで躓くプログラマーというのを見たことがありませんでした。

――では、任天堂のハードについては?

堀井ファミコンはいまだにゲームを作りたいと思っているハードです。去年開発させていただいた『ナムコットコレクション』(バンダイナムコエンターテインメント/2020)では、ファミコンアレンジとして新作を2作ほど世に出せました。

 中学生のころ、なぜ『ギャプラス』(ナムコ/1984)がファミコンでは遊べないんだろう? 作りかたを考えよう、と思っていたものが力量あるプログラマーさんに実現してもらえて、ファミコンの『ギャプラス』がさも当時実在したかのように出せたのが嬉しかったですね。

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――近年の最新ハードについては、おもしろみなどは昔のハードと比べでどう感じていますか?

堀井開発のうえでの苦労がマゾ的なおもしろさをかもし出す、といったことはなくなりつつあります。その代わりに最先端の技術が入っているので、それを使ってどのような表現をするのか、といったところが問われてくるのがおもしろいですよね。

 僕はいまだにVRが好きで作品に触ったりしますし、コントローラーでもNintendo SwitchのJoy-ConのHD振動(※ふたつのJoy-Conが別々の微細な振動を再現できる機能)にはびっくりしました。ぜんぜん実現できていないのですが、ああいった機能を使って人を驚かせるものを作ってみたいです。

――これまでの移植作を考えると、PS2などの時代のものと、昨今のPS5などのものではニュアンスも異なってきているのでしょうか。

堀井SEGA AGES』の初期にあたるPS2のころだと、どうしても速度が足りないので何かを端折ってバレないようにする、といった作業が必要になることもありましたが、いまだとほとんどなくなっています。むしろいまでは、"まったく同じかどうか"を第一にしているんですよ。

――まったく同じ速度や内容、ということでしょうか。

堀井たとえば、『ケツイ~絆地獄たち~』(ケイブ/2003)を開発元のケイブさんの許諾をいただいて、2018年にPS4版の『ケツイ Deathtiny ~絆地獄たち~』として移植させてもらったんです。

 こちらでは『ケツイ』の生みの親である池田さん(池田恒基氏)から要望書をいただきまして、それが1台のジョイスティックがあって、それがアーケード版の『ケツイ』とPS4版の『ケツイ』につながっていて、スティックを動かすと同じ結果が出るようにしてほしい、という内容だったんです。

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――処理速度とかぜんぜん違うハードどうしで、とんだ地獄要望じゃないですか。

堀井要望書ではアイコンにいらすとやさんの素材が使われていたのですが、ドスが効いたメッセージを感じましたね……。ハードの違いもあって、まったく同じ動きにするのは難しいんですが、処理落ちなども含めて極力同じ動きになるように、逐一確認しながら開発していきました。

――同じにするために、ほかに障害などはあるのでしょうか。

堀井一般的なモニターがブラウン管から液晶になったので、応答速度が遅くなったこともあり(※画質はさておきブラウン管を用いるCRTモニターは最新の液晶モニターよりも応答速度、切り替え速度に優れているとされる)、処理速度が余っていたらその“遅くなっている”という感覚を感じさせない努力に費やすようになりました。

――執念ですね……。ではそれに関連して、クラシックゲームの移植に対する理念やポリシーなどあれば伺いたいのですが。

堀井これはふたつの方向からのアプローチがあります。ひとつは、いま遊んでもおもしろいゲームを、いまおもしろく遊べる環境に持って来るという点です。

 この場合、ゲームの中身は必要なら手をつけます。いまだともっさり動いて見えるから、動きを速くしよう、といった感じですね。ボスキャラ戦を何度も練習したいから中断セーブをつける、というのもその一環です。

――なるほど、プレイヤー目線からも助かる仕様ですね。

堀井もうひとつは、ハードウェアが変わると話が違ってくるのでどうなんだろうとは思うのですが、昔のゲームを可能な限り同じ形で世に出したいという、アーカイブ的な目的もあるわけです。

 その場合、ゲームには可能な限り手を加えず、マルシーマークや会社のロゴ表示などはなるべく残したいです。その辺はやはり売り物にするときには法的な問題とか、時勢的なものと相談しつつも、なるべく同じものにしたいと考えています。

――前者と後者で、作品によってどちらかを優先するといったこともあるのでしょうか。

堀井それはないです。中断セーブでボスを何度もやり直せるという便利さを持たせつつも、使わなければ可能な限り原作そのままになる、といった作りにしています。

 ただ、会社がなくなっていると権利元が分からなかったり、会社が存続していても昔のロゴは使ってほしくなかったりとか、そういったところが難しいですね。

――そこは権利者の意見を尊重すべきところですからね。ではポリシーに続いて、エムツーさんの技術力というのはどのようにして培われたものとお考えでしょうか。

堀井たぶん、強制ではなく好きなことをやっているので、深堀りが苦にならず耐えられるという点が大きいかと思います。そういう考えの人たちが集まっているからこそ、人に恵まれているからこそですね。

――いろいろな人材がエムツーさんにはいらっしゃいますが、それも同じ志に惹かれて集まってきたということでしょうか。

堀井ゲームが好きな人が集まってきていますよね。ゲームを作っている人どうしの飲み会などで、意気投合して来てくれた人などもいますね。

E-moteやオリジナルタイトルは、いかにして生まれたか

――沿革によると2013年には『超・立体技術E-mote』のライセンス提供も開始されていますが、クラシックゲーム移植に留まらないこのテクノロジーはどういった経緯で生み出されたのでしょうか。

堀井Flashなどで使われる多関節アニメーション技術で、職人の皆さんが立体物が動いているかのように見える表現をしていたものをツールにまとめたような側面があります。

 エムツー社内にもFlashですごいものを作っていた方がいまして、そのノウハウをゲームのメニュー表示やキャラクター表現に使えないかと作った社内ツールが『E-mote』の前身にありまして……

――クラシックゲームとはまた別の流れというか、新規事業を立ち上げたという感じではなかったのでしょうか。

堀井それとは別にKONAMIさんとWiiで『グラディウス ReBirth』や『魂斗羅 ReBirth』、『ドラキュラ伝説 ReBirth』などのタイトルを作っていたんですが、そのときに「好きに作っていいよ」と言われたので好きに作ってみた結果でもあるんです。

 ボスキャラを多関節でかっこよく動かしたり、変形をうまく使って演出をすごくしたいと考えて、先程のツールを作り始めてゲームに使っていたのですが、それがそのまま『E-mote』に繋がったんです。その中からキャラクター表現などに特化して機能強化して完成した感じです。

 エムツーの30年にとっては、こちらも好きなゲームを好きなように作っていいと言われ、それを楽に作るために環境作りをした結果「すごいものができた」と世に出したものですから、ほかのタイトルと由来は変わらないかと思います。

――同じく2013年には、エムツー初のオリジナルタイトル『アホ毛ちゃんばら』をリリースしていますが、オリジナルゲームを手掛けるというのはやはり長年の夢だったのでしょうか。

堀井これは本当に、いつか自分たちでオリジナルタイトルを出したいという目標があったので、何度もチャレンジしては何度もほかのお仕事などとの折り合いでうやむやになっていたものを、リリース2年前くらいに並木学さんがエムツーに入って、「僕がまとめてみましょう」と言ってくださって実現しました。

――それまでに消えていった、いまだから話せるプロジェクトなどもありますか?

堀井2008年くらいに『アレスタ』(コンパイル/1988)の権利をD4エンタープライズさんから取得することができたので、それ以降オリジナルの『アレスタ』作品はいくつか作ろうとしました。Wiiで『ReBirth』シリーズを作ったこともあって『アレスタ』作品も作っていたのですが、完成には至りませんでした。コントローラーを4つ使えるように、がんばって作っていたのですが……。

――オリジナルタイトルを作ってみて、新たな手応えや気付きなどはありました?

堀井自分たちでゲームを作って、告知して売るまでの一連の流れを経験できたのは大きかったです。ただストアに載せるだけで目立つものではないとか、興味がありそうな人に見てもらうには何をすべきなのかとか、深く考えるようになりました。

――『アホ毛ちゃんばら』以降もオリジナルタイトルを多数手がけていますが、その際の方針や戦略などは?

堀井本来であればファミ通さんなどに、企画書を持って「こういうのはいまどうなんですか?」などとお聞きすべきなのでしょうが、我々は相変わらず自分たちの“好き”を押し出しているんですよ。

 自分が好きであれば、それと同じ好みの人が何人かはいてくれる。まずゼロではない、自分がいるから! という気概ですね。つまり現在も“ノー戦略”です。

――あはは(笑)。ある意味かっこいいですね。たぶん。

堀井その際たるものが、最新作の『戦刃アレスタ』でしょうか。別の本業をタスクとして振られているプログラマーが、「でもオレ、シューティング作りたいし」と本業をちゃんとこなしつつも、気が付いたら2面くらいまで勝手に作ってしまっていたものなんです。

――できちゃったから認めろ、と。

堀井現代の会社だと、コンプラ的にどうなのか言われそうではありますね。つまらなければ文句も言えたのですが、おもしろかったのと、とにかく速度と勢いがあったんです。

 この勢いを止めては、むしろそのプログラマーの本業のほうもダメになるのでは? という懸念もありまして、ダメとは言わないのが正解かと思ったんです。そんな風に思っていたら、ほかの会社で手が空いていた人が、勝手に絵を描いてしまったりもしましたからね。

『エムツーショットトリガーズ』から得たものとは

――では続いて、エムツーさんの主力ブランドとなった『エムツーショットトリガーズ』シリーズについてお聞きしたいのですが。

堀井ファミ通さんには、以前のインタビューでお話ししていましたね。当時『バトルガレッガ』(エイティング/1996)が20周年だったことと、我々がシューティングゲームが大好きだったことと、花見の席で「20周年だしやろうぜ!」という話になったことが、シリーズのきっかけでした。

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――花見というと4月くらいだと思うのですが、そこから20周年の年内に出そうというのは相当な無茶だったのでは……。

堀井Wiiで奥成さんと『Wii バーチャルコンソールアーケード』を担当していたころから、「他社のゲームもやりたい」という話はしていたんです。そのとき『バトルガレッガ』をやりたいと勝手に作っていたのが功を奏しました。

――エムツー全体の勝手に作る文化は、やっぱり堀井さん発祥なんじゃないですかね。

堀井否定はしません。親の背中を見て子は育つ、というヤツかも知れません。

――シューティングのシリーズにしようという話は、当初からあったのですか?

堀井統計があればご確認いただきたいのですが、2016年以前の時期には本当にシューティングゲームってリリースされていなかったんですよ。そこで、自分たちが遊びたいからシューティングを出そう、ということになったわけです。
 いまはシューティングゲームも、ありがたいことにわりとあるんですよ。もしいま企画するとしたら、別のシリーズになっていたかも知れません。

――むしろ、いまのシューティングが多く出ている風潮の口火を切ったのは『エムツーショットトリガーズ』だったのでは。

堀井もしそうなら、嬉しいです。本当に2013年あたりからは、「シューティングゲームは出しても無駄」くらいのことを版元さんから言われ続けていました。いまではちゃんと食べていけるくらいに求めていただけていますから。

――2016年ごろまで、シューティングゲームが不況だった理由についてはどうお考えですか?

堀井結果として“出せば売れる”のに、工夫をして出していなかったからかもしれません。むしろだんだん売れなくなっていった理由については、僕も知りたいところです。

 『エムツーショットトリガーズ』で得た感覚から言うと、しっかりと作品を選び、自分たちが納得するものができ、「できました!」と求めている人に語りかけることができていたかどうか、というのが大事だったのではないかと思います。

――確かに、当時はそういった企業努力が足りなかった可能性はありますね。

堀井あと、いま売れている理由としてはプレイヤーさんに「ずっと食べてなかったので、久しぶりに食べたくなった」という人が多かったこともあるのではないでしょうか。

――シューティングゲームが出ない時期、シューターの皆さんは相当煮詰まっていましたからね。

堀井Xbox 360以降は、ケイブさんがめちゃくちゃがんばってくれたりしたおかげで、けっこうタイトルが続いたんですけどね。

――では続いて、『エムツーショットトリガーズ』のラインアップ戦略についても伺いたいのですが。

堀井やりたいタイトルについては当然いっぱいあるのですが、ぶっちゃけるとまずは許可してくださる会社さんがないとどうにもならない、というところがあります。もうその会社から家庭用でシューティングゲームが出ない、と思われるところから拾い上げていければと考えています。

 プレイヤーさんとしては本来なら、その会社さんから気合いが入った家庭用ゲーム機版が出てくれるのが一番でしょうしね。

――逆に、チョイスしないタイトルの基準などはあるのですか?

堀井遊ぶ人がいなさそうなタイトルについては、あまりやろうとは思わないかもです。ただ、2021年10月発売予定の『究極タイガーヘリ』などでは、有名タイトルである『究極タイガー』(東亜プラン/1987)を軸に、何本かの東亜プランタイトルを詰めることができたので、このように単体だと出すのが難しいタイトルでも出していければと考えています。

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――クラシックゲームは一本でも多くすくい上げていきたい、といった気概でしょうか。

堀井そこはポリシーのところで触れた、アーカイブ化といった目的の面もあるわけです。クラシックゲーム全般に対して、可能な限り残していきたいです。

 ほかのゲームも、どんなゲームでも誰かしらには刺さっていて、ピーキーな遊びかたや熱中ぶりを見せてくれている人がいるわけです。僕らは商売でやっているので全部に応えることはできませんが、そういうものもできるだけ拾い上げていきたいと考えていて、『究極タイガーヘリ』などでは、なんとか口実を設けてそれが実現できたと思っています。

――やりかたを工夫して、一本でも多く拾い上げていきたいと。

堀井そうですね、僕も「このタイトルを出してほしい」という話をよく聞く立場になりまして、そうなると僕が知らないタイトルについても熱く語ってくれる人がいるわけです。

 そうなるとそれは僕がそのタイトルを知らないだけであって、また日の当たる場所に出してあげたら、また脳汁が止まらないくらい熱中する人が出てくるものだと思うんです。そういったところの、"もう一度遊べる"ということに関して、できるだけのことをしていきたいです。

――そうした要望を聞いてみて、とくに熱望があるから手掛ける、といったこともあるのでしょうか。

堀井そうですね。一方で、要望を聞いてみて「僕らがやりたいタイトルと被るよね、やっぱり」と確認させていただくことも多いです。「やっていいんだ! それならこのまま進むわ!」みたいな。

――するとやはり根柢の第一には、堀井さんたちが遊びたいタイトルというところがあるわけですかね。

堀井結果として人気があるタイトルが選ばれた形になっているかもしれませんが、やはり作っている人が「このタイトルが好きだ」という気持ちがない限り、手に取ってくれたファンにはバレてしまうだろうとは思っています。

 マンガとかでもあるじゃないですか。作者が描きたいことはもう全部描いてしまって、「続けろ」と言われて描いているよね、という作品が。

――たしかに……。『エムツーショットトリガーズ』のラインアップで、とくに思い入れが深いタイトルなどはありますか。

堀井最初の『バトルガレッガ Rev.2016』でしょうか。発売日まで会社があるのか、なにかミスって爆発するのではないかと……。当時はうちの会社が家庭用ゲーム機でゲームを無事に出せるとは思えない、くらいの自信のなさでしたので。

――『バトルガレッガ Rev.2016』はコンシューマーでの初パブリッシングタイトルだったと思いますが、手応えはいかがでしたか。

堀井ビジネス抜きで、お店に自分の会社のゲームが並んでいるのが嬉しかったです。ゲームファンとしてこれでもうやるべきことはやったし、叶えるべき夢は叶ったと思いました。

 ゲームをやりながら酒飲んで、あれこれ文句を言いますよね。そこで「ではお前、自分の理想のゲームを出せるの?」と言われたときに、「やったことあるよ!」って言えるようになったわけですから。

――逆に、パブリッシングを始めてみて苦労した点などは?

堀井ひとつのものを世に出すまでの行程の多さと、きっちりと皆さんにお知らせするまでの熱量の果てしなさを学べました。ゲームを出して、あとはほったらかしにするのとはワケが違いました。

エムツー30周年記念インタビュー!“好き”を貫く堀井直樹社長といっしょに、クラシックゲーマー感涙必至の30年を振り返る

メガドラミニでも奥成氏。そして30年続けられた理由とは

――では続いて、メガドライブミニやPCエンジンminiなどでもエムツーさんのお名前を訊くようになりましたが、これらの復刻ミニゲーム機への想いなどもお聞かせください。

堀井やはり物理っていいですよね。手に取れるのが最高じゃないかと。ゲームで遊ぶことも大事なのですが、当時のゲームの筐体や景色を再現するのも大事だなあと改めて実感しました。

 メガドライブミニは筐体をセガさんが作っているときに、「こんなに精密に作るんだ!」とびっくりさせられたんです。それをテレビにつなぐという行為自体に、ものすごく価値を感じました。

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――それだけでワクワクして、期待が高まりますね。

堀井そんな筐体に入っているゲームが、ぱっと見でニセモノだと思われてしまったら、ものすごく体験の毀損になるだろうと思ったんです。それでスタッフも相当気を遣いまして、電源を入れたあともプレイヤーさんをガッカリさせずに走り切れたかと思います。

――そのあと、PCエンジンminiなどでもエムツーさんにお話が来たわけですよね。やはり業界でも、ここまでできるのはエムツーさんしかいないという認識ですかね。

堀井そうかもしれませんが、その前にメガドライブミニでお話がいただけたのは、奥成さんあってのことでした。奥成さんが、セガさんがアメリカで先だって販売していたメガドライブミニ的なハードのソフトの評判がいまひとつだったから何とかしようということで……。

――ここまで来ると、相当な縁ですね。

堀井自分の好きを信じて、それを手放さず最後まで走り切るとけっこういい感じになるという好例ですよね。ビジネスでは納期や予算などのしがらみで泣かざるを得ないのですが、奥成さんは可能な限り泣かないように全力を尽くすし、場合によっては身を削っているんだと思います。

――そんな人が陣頭指揮をやっていれば、周りも引っ張られていきますよね。ついおうかがいしてしまうのですが、堀井さんにとって奥成さんがどういう存在なのでしょうか。

堀井あの人はよくわからないですね。僕にとっては、セガさんに対して『ファンタジーゾーンII』をアーケード基板で作りたいというボールを投げて、返す人なんて絶対いないと思ったら喜んで返してきたという唯一の人です。

 後日わかったことなのですが、当時の『Beep』という雑誌で『ファンタジーゾーンII』に2周目がないことを本名で投書して嘆いていたそうで、同じ穴の狢だったんだなぁと。

――またすごく懐かしい雑誌名が……。こうして改めて30年間を振り返ってみて、30年エムツーを経営してこられた理由については、どのようにお考えでしょうか。

堀井じつは、そこに自分の答えは見つけられていないんです。まず得意ジャンルがあって、そのジャンルをひたすら磨いてきたことと、自分たちが出してきたゲームに関してはほとんどが、自分たちで設けたボーダーラインを越えるデキになるまでクライアントの皆さんが待っていてくださったことが大きいです。

 そうしてできた作品を手に取っていただいて、「エムツーだったらここまでやってくるよね」と買う前に期待していただける位置まで行けたのが、何よりよかったのだろうと思います。

――やはり、ゲームを手に取ってくれるファンありきですね。

堀井そうした皆さんの中に、クラシックゲームを待っていてくれる方が思いのほか多かったんですよ。我々は腕を磨いてきたとはいえ、クラシックゲームの価値が誰にも認められなかったら、たぶん活躍の場も需要もなかったんです。そこに関しては、運だったと思います。

――運ですか。

堀井運ということで言うと、任天堂さんがクラシックゲームの楽しさを訴求してくださったことも大きいです。バーチャルコンソールを展開してくれたり、ゲームボーイアドバンスでファミコンソフトの復刻版をリリースされたり。「昔のゲームはいま遊んでもおもしろい」という経験をゲームプレイヤーさんが積んでいたからこそ、我々にも居場所があるんだと思います。

 ときどき誰かが土をほじくり返して空気を入れて、土を豊かにしてきてくれたからこそ、いまのクラシックゲームの市場があるのではないかと。

――ゲームは新旧問わず、遊んでみれば何らかの感動はあるものでしょうしね。

堀井映像のように眺めるものではなく、ルールとチャレンジがあるものであれば、どの時代のゲームも古びることはないと思います。

――ちなみに30年間、経営をしてきて辛かったことなどはあります?

堀井社長業さえなければ、不老不死でいたいくらいに思っているのですが。社長業だけが本当に人生で一番イヤですね。

 社長業をやっていると「ここは納期とかがあるし、本数の関係もあるからこれくらいに抑えてね」と指示したはずが、「社長はああ言うが知らん」とか無視されたりしますから。有名プレイヤーにテストプレイに来てもらったときに見てみたら、「指示丸無視しているけれど、すごい出来だなー!」とかいうこともあります。

――それは社長的にはまずいのでは。

堀井いや、「でもここまでの期間でこれだけのものを作ってくれているなら、むしろがんばらないといけないのは僕なのでは」と思うんです。スタッフががんばれる環境を作るのが、僕の仕事なんだと。それでまた社長業の難易度が上がって、イヤになっていくんですけどね。

――ゲーム好きが集まった、エムツーさんならではですね。

今後もエムツーは、ゲームへと真摯に向き合っていく!

――では、エムツーさんの今後の展開についてお聞きします。まずは東亜プランタイトルの予定についてお伺いしたいのですが。

堀井この前の公式配信でも軽く触れましたが、いよいよ東亜プランタイトルのリリースを始めることができました。東亜プランには作品がたくさんあって、僕の目標はそれを全部出すことですので、こじつけでも何か理由をつけて、ひとつのタイトルに何本か付け加えることで、何とか全タイトルリリースに迫りたいと思います。

 「これは商売になるの?」と言われるようなタイトルについても、我々が走っているあいだには出せる可能性が高いですので、ご安心いただければと。

――これまでは1年に1本くらいのペースで来ていますが、今後もそれくらいのペースになるのでしょうか。

堀井それについては明確にはお答えできませんが、「これから先はギアを上げていく」とだけはお話ししておきたいです。

――ほかのメーカーさんとの取り組みも気になるところです。『エドワードランディ』(データイースト/1990)や『ザ・グレイト・ラグタイムショー』(データイースト/1992)などの交渉の続報についてはいかがでしょうか。

堀井こちらについては、何かお伝えするにはまだお時間をいただきたいところです。すさまじくいじりがいがあるタイトルだということはファンの皆さんはご存じだと思いますので、ふさわしいレベルまでやりたいところです。

――ほかに交渉を進行中のメーカーさんなどについても、教えていただけますか。

堀井相変わらずケイブさんや、エイティングさんとはお話をさせていただいています。まだきっちりとOKをもらっているわけではないですが、これまで名前が出ていないメーカーさんのタイトルについてもがんばります。

――お話を聞くだけでも、けっこうなラインが走っていますよね。

堀井会社の人数が50人くらいで、外部で動いている人も10人はいますので、現状60人くらいの体制ですね。『エムツーショットトリガーズ』に関わっているのは15人か20人くらいで、実際に動かしてみてこのタイトルはいけそうだなと試しつつ、いけそうなら人を集めて動き出そう、という流れがいくつか同時に動いているところです。

――そんな中には、勝手に作っている人もいると?

堀井それは置いておいても、『エムツーショットトリガーズ』では現在、『ウブスナ UBUSUNA』、『アレスタブランチ』といった新作も含めてラインが3つか4つくらいは動いているかと思います。

――では続いて、公式配信や他メディアなどで触れていた『ウブスナ UBUSUNA』、『アレスタブランチ』、『学園(仮)』、『もののけ忍法帖』、生放送で触れておられたと思われる8bitの新作など、さまざまな予定タイトルについても伺えますか。

堀井井内ひろしさんの新作『ウブスナ UBUSUNA』については、「僕は現在このタイトルを出すために会社をやっております」というくらいでいます。これが出たらもう力尽きてもいいと思うくらいの気概です。

――そこまで惚れ込んでいらっしゃるのですか?

堀井遊んでもらうのがいちばんいいのですが、「すごいから!」としか言えません。『斑鳩』(トレジャー/2001)や『グラディウスV』(コナミ/2004)とかを見てきた人には、井内さんの絵作りのすごさや、カメラや背景の構図のすごさはおわかりいただけるかと思います。

 あの研ぎ澄まされた美しい絵の中に、ビデオゲームとしての駆け引きが美しいまま盛り込まれていて、それを井内さんが日々自分を削ってもんどり打って作っているわけです。その光景を見てしまっているので、「すごい!」としか言いようがないんですよ。井内さんにはほかのラインも助けてもらいつつ、取り組んできていただいている10年なので、何としてもこれを世に出すまでは力尽きるわけにはいかないです。

――では、具体的な発売時期などは……?

堀井ゲーム自体はできてきているのですが、いまのハードウェアでの絵作りに手間がかかるので、具体的にはまだわからないです。『グラディウスV』などで感動した人なら見ただけで悶絶必至かと思いますので、楽しみにしていただければと!

エムツー30周年記念インタビュー!“好き”を貫く堀井直樹社長といっしょに、クラシックゲーマー感涙必至の30年を振り返る
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堀井氏が「現在このタイトルを出すために会社をやっている」という気合いの入った井内ひろし氏の新作『ウブスナ UBUSUNA』。

――では、『アレスタブランチ』につきましては。

堀井相当な勢いでできつつあるので、今年、来年にはお披露目の機会を設けられるかと思います。こちらもかなりのデキで、我々の出す『アレスタ』シリーズ3作目なので、「3本も作るとここまで来るのか!」、と思っていただけるかと。

エムツー30周年記念インタビュー!“好き”を貫く堀井直樹社長といっしょに、クラシックゲーマー感涙必至の30年を振り返る
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エムツーによる『アレスタ』シリーズ3作目。相当の自信作のよう。

――では続いて『学園(仮)』についてお願いします。

堀井『学園(仮)』については松下佳靖さんが恐ろしい勢いでがんばってくださっています。ただし松下さんの場合、僕が頼り切っていて、何かあるとお手伝いを頼んでいたりするので、申し訳ないです。とはいえ、PCエンジンminiとか喜んで手伝ってくださいましたけどね。

 なお、8bitの新作や『もののけ忍法帖』については、この謎の新作『学園(仮)』につながるものですので、こちらのプロジェクトが進むにつれていっしょに見えてくるかと思います。

エムツー30周年記念インタビュー!“好き”を貫く堀井直樹社長といっしょに、クラシックゲーマー感涙必至の30年を振り返る
松下佳靖氏が恐ろしい勢いで取り組んでいるという『学園(仮)』。8bitの新作や『もののけ忍法帖』はこの『学園(仮)』に連なるタイトルとのこと。

――では『アレスタブランチ』を最初として、続々それらのタイトルが出てくるわけですね。楽しみです!

堀井『アレスタブランチ』は順調で、今年中にオールインになるかとも思いますが、何か付け足すものを思いついちゃったら延びるかもしれませんね。

――『ケツイ』のときはそれでぐっとおもしろくなったので、それはそれで……。では予定のまとめとして、エムツーさんが今後目指す方向性などを伺えますか。

堀井自分たちがよいと思うもの、楽しめるものを出し続けていくことは、確実にぶらさないで続けていきたいです。もうひとつ、自分たちが楽しんでいるものをまだ楽しんだことがない人に向けて、手に取ってもらえる仕組みというものを長期的な取り組みにしたいと思っています。どうしていいのかは、まだわかっていませんが。

――その取り組みに関して、何か取っかかりなどはありそうでしょうか。

堀井いまのところはぜんぜんないんですよ。そのゲームをやったことがない人に向けて、手に取りやすく内容がわかりやすいゲームを作るという方法もアリでしょうし、学割みたいな方法もアリかと思っています。

――学割ですか?

堀井これは僕がずっと言い続けているのですが、若い人が手に取りやすいようにして、ゲーム業界を盛り上げていけるように……と発想したものです。そういう方向で、やったことがない人が「試しにやってみるか」と思えるような入り口を作りたいです。

 それは、「シューティングゲームをやったことがないけど、このクリエイターの絵や音楽は好きだから」といったような入りかたであってもいいわけで、1年2年で結論が出せるものではないとは思っています。

――それでは最後に、30年間エムツーさんを支えてきてくれたファンの皆さんへのメッセージをお願いします。 

堀井SNSで醜態をさらしている私ですが、これからもゲームへと真摯に向き合っていきたいと思っております。皆さんにもぜひいっしょに、向き合っていただけると嬉しいです。

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セガ 奥成洋輔氏特別寄稿

 私がエムツーさんと最初に仕事をしたのが、PS2で『SEGA AGES 2500』シリーズを途中から引き継いだときでした。信じられないくらい少ない予算で、どうやってプロジェクトを回していくか考えている中、「おもしろそうなので全部やらせてください!」と無謀にも乗り込んできたのがエムツーさんです。おかげでその後延長もして3年間、最後まで付き合ってくれました。スタート当時冗談で「予算が少ない分は、私がエムツーさんの宣伝をして会社を有名にしますから、その後で儲けてください」と言ったのですが、気が付けば社屋は民家からビルに、従業員数も5倍に増えていました。よかった。

 その後もエムツーさんとは、休む間もなくいろいろなプロジェクトをやってきました。予想以上に大ヒットしたものもあれば、開発途中で中止になったものもあり、短期だったり長期だったり、お互い成長していきました。その中で一度だけエムツーさんから企画提案を受けたことがあります。なんとセガとは関係のない他社のゲームを持ち込んできて、「これを売ってほしい」と言うのです。私はふだんはアメリカにいる当時の上司をエムツーの会議室まで連れて行き、その『バトルガレッガ』をプレイさせてみたのですが、とまどう上司の顔を見て「ですよねえ」って、さすがにこれは無理があるなと断念しました(ちなみにこのときの上司はいま、セガの代表取締役会長CEOをしています)。

 しかしその後もエムツーさんは諦めず、7年後自身でパブリッシャーになって発売を実現させます。自分が遊びたいゲームを、自身で納得のいく姿で移植し、発売にこぎつける。会社としてのこの初志貫徹ぶりは、誰にでもできるものではないと思います。

 メガドライブソフトの開発から始まって、30周年を迎えたエムツーさんですが、まさにこれから『セガ3D復刻アーカイブス』以来7年ぶりに松岡ディレクターとガチでプロジェクトを始めたところです。改めてよろしくお願いします。

エムツーのおもなタイトル

※は自社パブリッシングタイトル