SF史に残る(べき)ゲームたち:第14回『Spacewar!』『スペースインベーダー』『ゼビウス』など――シューティングゲームとSF

ゲームと映画の発明の初期に存在したモチーフ

※購入先へのリンクにはアフィリエイトタグが含まれており、そちらの購入先での販売や会員の成約などからの収益化を行う場合はあります。 詳しくはプライバシーポリシーを確認してください

1962年、マサチューセッツ工科大学の学生・スティーヴ・ラッセル『Spacewar!』というゲームを作った。かなりスペックが低くて、白黒の点が動いているだけである。初期のデジタルゲームは、技術的な限界により、その程度の表現しかできなかった。しかし、その時点で既にゲームはSFと結びついていたのである。これは何故なのだろうか。今回は、初期のゲームとSFの関係を取り扱いながら、両者が呼応した発展の歴史を簡単に追ってみようと思う。

Steamでの『Spacewar!』のやり方
その初期の段階からSFと結びついていた。

デジタルゲームの始まりははっきりとしない。記録に残っているのは、50年代からで、『XOX』という三目並べ(〇×ゲーム)や、『Tennis for Two』が確認されている。『XOX』は机上の知的ゲームで、『Tennis for Two』はテニスというスポーツ。『Spacewar!』は、宇宙戦争、つまりはSFである。ゲームというメディアが出来たばかりのころは、それはパズル・スポーツ・戦争・SFを模していた。このことは、深く考えさせられるところがある。

映画という比較的新しい芸術も、その初期からSFのジャンルを用いていた。諸説あるが、標準的な映画史で、映画の始まりと言われるのは、リュミエール兄弟が1895年に有料で公開した映像である。その映像は、白黒で音もなく、電車がただ走ってくるだけだったり、ホースで水を撒いている断片だけでしかなかった。物語性が本格的に導入され、動画と動画のつなぎ(編集)がある最初の映画は、1902年のジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』だと言われている。タイトルで分かる通り、特撮を駆使した宇宙旅行SFだった。

映画とゲームという、科学技術と深く結びついた若い芸術が、両方とも、その初期の段階からSFと結びついていた。これは不思議なことである 今回は初期の――すなわち、まだ物語性も、深刻な主題もゲームが有していなかった時期における、ゲームとSFの関係性について素描しながら考えていく。

宇宙を舞台にするシューティングゲームたち

なぜゲームは、SFと結びついたのだろうか。

少なくとも、初期の『Spacewar!』や『スペースインベーダー』の舞台が「宇宙」になった理由は、単純なことではないかと思われる。初期のゲームとモニタは、背景が黒一色で、その上に白い何かを動かすのが精いっぱいだった。黒い空間を何かに見立てようとしたら、まず真っ先に宇宙が思い浮かぶだろう。もちろん、当時は宇宙開発競争真っ盛りで、宇宙に夢も憧れもロマンも強く抱かれていたということの影響は大きい。

ユタ大学で電気工学を専攻していたノーラン・ブッシュネルは、『Spacewar!』に影響された、1971年に『コンピュータースペース』という作品を作った。これは、宇宙ではなくコンピュータ空間に画面を見立てたものである。映画『トロン』の先祖と言うべきか。

 
マグナボックス社のオデッセイ

翌年1972年に、ラルフ・ベアが開発した世界初の家庭用ゲーム機「オデッセイ」が発売された。この名前は、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』の原題『2001: A Space Odyssey』から採られている。またしても「宇宙」である。ゲームと宇宙の結びつきはどうも深い。

ブッシュネルがアタリ社を設立する。社名は囲碁の「当たり」という用語から採り、作ったゲーム『PONG!』はおそらく卓球(ピンポン)に見立てた。これがゲームの歴史の最初の商業的に成功した作品だと言われている。翌年には『Space Race』(宇宙開発競争)という、宇宙ものを手掛けている。

1974年には多人数対戦型の宇宙シミュレーション『Spasim』が発売された。これは、黒い背景の上に、3Dのワイヤーフレームで描写されたものだ。3Dのオンラインゲームの原型がこの時点で作られたことに驚かされる。

宇宙の見立てがすぐにまた復活する。

SFと初期ゲームの関係で需要なのは、ブッシュネル手掛けた1976年の『ブレイクアウト』だろう。これは日本では「ブロックくずし」として知られている。反射する弾をラケットで打ち、その球がヒットしたブロックが消えていくというゲームだ。この作品は大ヒットした。この作品の見立ては「脱獄」である。

宇宙の見立てがすぐにまた復活する。1978年、『ブレイクアウト』に刺激を受けて、タイトーが『スペースインベーダー』を発表した。クリエイターは西門友宏。これは尋常じゃないほど、世界的かつ爆発的なヒットとなった。『ブレイクアウト』の影響を受けつつ、舞台を宇宙に設定し、宇宙人との戦いに変更したところが本作のSF史的に重要なところである。ラケットを、自機の宇宙船に。反射するボールを、発射する武器(ミサイル? レーザー?)に。崩れていくブロックを、攻めてくる宇宙人に、それぞれ変えている。ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』が大ヒットして空前のSFブームが起きていたが、それに着想を得た作品であったと言われている。

『スペースインベーダー』は「キャラクター」をゲームに導入した爆発的なヒットをした画期となる作品と見做されることが多い。中川大地は『現代ゲーム全史』の中で、本作をこう評している。「格段に強いキャラクター性を獲得」したことにより、ゲームを動かす人工知能が、対戦相手としてではなく「人間とは異なる身体特性と行動原理で動く『他者』としての生命性を持った存在」(p123)として感じられるようになったのだと。

画面が「宇宙」に見立てられ、ゲームそれ自体を動かす人工知能が「宇宙人」の喩えで表現されるようになったのが『スペースインベーダー』だと言えるかもしれない。本作の影響下で、1979年にはナムコが『ギャラクシアン』を発表。これはほとんど『スペースインベーダー』と似ているのだけど、『スペースインベーダー』では塊になって全体で同じような動きをしていたエイリアンが、『ギャラクシアン』では一体一体細かく違う動きをするようになったのが革新的であった。

翌年、1980年にアメリカで、横スクロールするシューティング『ディフェンダー』が発売した。ここまでは画面は固定のものだった。それが、平面的に画面がスクロールすることで、疑似的に自機が移動しているという感覚をプレイヤーに与えることが可能だった。これも重大な革命だと言える。

1981年にはコナミから、大ヒット作『グラディウス』の原型となる横スクロールシューティングの『スクランブル』発表された。同じ年にはナムコから『ギャラガ』が発表された。批評の文脈で良く論じられるのは、1983年に発表された縦スクロール作品の『ゼビウス』である。この作品は、大ヒットし社会現象にまでなった。その特徴は、世界観とストーリーだと言われる。

物語や世界観があるように感じられ、その探求にプレイヤーを向かわせる

中沢新一は、「ゲームフリークはバグと戯れる」という先駆的なゲーム評論を一九八四年に『現代思想』に書いた。ゲームの歴史をたどりつつ、「バグ」と戯れるプレイヤーに注目したこの評論は面白いので実際に読んでみてほしいのだけれど、『ゼビウス』に関して論じているところに今は絞って紹介する。

遠藤雅伸手掛けた『ゼビウス』は、これまでのSFシューティングと比較して、物語や世界観があるように感じられ、その探求にプレイヤーを向かわせるところが画期的だった。スペックの限界などがあるので、作中で明示的に物語が展開されているわけではない。基本的には寡黙なシューティングゲームである。だが、奇妙な敵キャラや、不可解な地形の造形物などが次々と現れる。そこにプレイヤーは何かを読み取り、頭の中で何かを作り上げ、答えを知るために繰り返しプレイし先に進もうとした。

プレイヤーたちは、ゲームのクリアや隠し要素探しに駆り立てられ、作品外の情報を追い求めていた。具体的には、第3エリアを通過するときに、「バキュラ」という硬い板が回転しながら飛んでくる。中沢曰く、これはキューブリックの『二〇〇一年宇宙の旅』のモノリスの引用である。第七エリアには「ナスカの地上絵」が出てくるが、これは「「宇宙からのメッセージ」をめぐるSF神秘学の蘊蓄を喚起」(p188)していた。それは「神話」だと言われる。

当時はSF自体がスピリチュアルやオカルトとも接近して混濁していた

この時期、SFやサブカルチャーに対して、「神話」と結びつけて論じる言説環境が存在した。今ではそのリアリティを感じにくいかもしれないが、何故かハイテクの機械の中に人々が求めているものが「神話」なり「神秘」なりであるように見えた。筒井康隆はじめ、多くのSF作家も「神話」に接近していった。

おそらく、この時期、ゲーム(コンピュータ)という新しいメディアそれ自体のもたらす未知の経験それ自体を探求し、それが何なのかを、ゲームプレイを通じて人々が掴もうとしていたのだろう(ゲームの画面、インターフェイスは、プログラムや機械の作動の比喩として感性的に理解されていたはずだ)。それが、SFとしてインターフェイス上では表現されていて、心理的には神話のようなものとして受け取られていたのは実に不思議だが、当時はSF自体がスピリチュアルやオカルトとも接近して混濁していたことを思いだしてもいいかもしれない。『機動戦士ガンダム』(1979)に出てくる「ニュータイプ」などがまさにその証拠である。

応酬と没入――断片的な物語の必要性

直接的に物語を語るわけでもなく、重厚で深刻なテーマを語るわけではなかった初期のこのゲームとSFの結びつきは、いわゆる「物語」や「主題」としてではないSFのあり方を示したかもしれない。そもそも、ゲームは、別に物語や主題が最も重要な快楽の中心となっているメディアではないはずだ。特に初期のゲームはそうだった。ブロック崩しの面白さとか、シューティングゲームで撃ちまくって敵を倒す快楽とか、難しいステージを突破する楽しさや爽快感は、別に物語や主題がなくたって成立するものだ。

プレイヤーが何かすれば、コンピュータが応答してくれて、流れるようにインタラクティヴな応酬を続けることに没入していく快楽を最大化するジャンルの一つが、シューティングゲームだろう。そのような没入の中で、濃厚な物語や映画的演出や深刻な主題は、ともすれば邪魔にすら感じてしまうものだ(だからこそ、そのような困難を成立させているゲームをこそ連載では高く称揚してきたが)。

だから、断片で、意味深なように語るという手法が有効性を持つ。そこまで物語や主題に集中しなくてもいい(意識が別のところに集中してメモリを使っていてもよい)形態が「反応」「没入」タイプのゲームには適合する。横スクロールシューティングを代表するタイトル『グラディウス』(1985)もそうだろう。「超時空戦闘機ビックバイパー」が「亜時空星団バクテリアン」を倒しにいくという設定になっているが、何回もクリアしたぼくですら正直ストーリーは全く理解していない。なぜ途中のステージにはモアイがいるのか。なぜラスボスに巨大な脳みそがいるのか。想像はできるけど、はっきりとは分からない。

『パロディウス』1988年、画面はWiiU版のストアページから。

『高機動戦闘メカ ヴォルガードII』(1985)『頭脳戦艦ガル』(1985)『ツインビー』(1985)『沙羅曼蛇』(1986)『ダライアス』(1986)『R-Type』(1987)も、断片的にSF的な世界観を提示しつつも、物語はよく分からない。「頭脳戦艦」はそもそも作中に全然出てこないし、なんだったのか分からない。ツインビーは何故飛んでいるベルを撃っていたのか、さっぱり分からない。

別にそれが悪いわけではない。それで十分面白かったのだ。

1988年の『パロディウス』に至っては、もはやシリアスなSF的世界観をすら振り捨てる。『グラディウス』のパロディの本作は、「超時空戦闘機」ではなく、自機が(オープニングでは)パンツを被ったタコである。ステージも神話的な世界ではなくて、パチンコ屋とか、『トラック野郎』をモチーフにした世界観である。

コンピュータと人間の接触の最も幸福な時期を演出したもの

この作品は、別にSF的な真面目な世界観じゃなくても、シューティングゲームは十分面白く成立できるということを十分理解して作られたとしか考えられない。別種の断片をまき散らすことで、シュール・リアリズムのような世界観をプレイヤーの頭の中に構築しようとする作品だ。SFを、物語や主題としてではなく、単なる断片(ガジェット)にまで解体する方向も、極まった感がある。

オープニングで、電子音で奏でられるタイトル曲をバックに、パンツを被ったタコが扇子を両手に持って踊っている。それが象徴するように、全体的に、土俗的かつキッチュな作品の味わいがある。80年代の日本のノリを良くも悪くも感じさせてくれる。

これらのSFシューティングは、ゲームというメディアとSFとが出会ったことで初めて生まれた特異な形式で、ゲームというメディアの中心にある、コンピュータとインタラクションし没入することの快楽と深く関わっている。おそらく、これらは、コンピュータと人間の接触という経験の寓話であり、コンピュータと人間の接触の最も幸福な時期を演出したものであると言えるのかもしれない。

機械との一体感の陶酔、その距離の加減

シューティングゲームの快楽の本質とは何か? ぼくは「機械との共同作業」がうまくいく悦びなのではないかと思う。「ハマる」つまり、「没入している」状態とは、機械との共同作業が最大限にうまくいっている状態だ。コンピュータの要求に応答し、逆に、こちらが退屈しないようにコンピュータが刺激を次々と繰り出してくれる、その一連の作業がスムーズにいくときの「フロー体験」(チクセントミハイ)こそが、デジタルゲームがはじめて人類に提供してくれた体験なのではないだろうか。

「現代ゲーム」とは、そのようなメディウムの条件に抗う側面がある。だからこそ様々な工夫が生じていて、豊かで面白い。そこに注目してこの連載ではそのようなゲームを比較的多く論じてきたが、しかし、ゲーム固有のメディウムの特性を追求したものとしては、シューティングゲームや、無双系や、アクションゲームなども当然、重視されるべきなのだ。

以上で語ってきた(シューティング)ゲームとSF(物語)の関係は、基本的に現在に至るまで、バリエーションを豊かにしながら続いている。重要な作品のみをピックアップしていくと、

1988年 『パロディウス』 ギャグ
1992年 『超兄貴』 ムキムキの男性が飛行機(?)になり撃つ、ギャグ
1997年 『怒首領蜂』 弾幕ゲー 大量の火器の快楽
1997年 『アインハンダー』 真面目でカッコいいSF路線
2001年 『Rez』 音ゲー
2002年 『東方project』 弾幕が曼陀羅のようなトランス&神話的世界

 一人称のシューティング(FPS)としては

1991年 『Wolfenstein 3D』 ナチスドイツと撃ちあう
1993年 『DOOM』 大ヒット 撃ちあう爽快感、異界に突入
1994年 『System Shock』 FPS+RPG
1998年 『ハーフライフ』 物語性・映画的演出の導入 異界がこちらの世界に来る
2000年 『Deus Ex』 自由度の高いサイバーパンクFPS+RPG
2001年 『HALO』 気持ちのいい撃ちあいと物語性とシリアスなSF性の融合
2001年 『シリアスサム』 撃ちまくりバカゲー
2007年 『Mass Effect』 重厚な物語と主題のRPG
2007年 『Portal』一人称三次元空間パズル

など、発達して進化し、ジャンルの分化が起こっていった。断片的なガジェットを提示し、没入しているプレイヤーに「世界観」を想像させていくタイプの作品も今でも続いていることが分かる。「物語」「主題」を重視しシューティングゲームと融合させる作品群も数多く生まれ成功した。

『怒首領蜂』1997年

コンピュータと人間が、コントローラーと画面のインターフェイスを通じ、相互のコミュニケーションをし、没入することによって意識がフロー状態(トランス的な状態)になり、陶酔し、一体となったかのような錯覚すら覚えるようになる。それはSFが描いてきたような内容だ。その状態を実際に経験しながら、科学技術や、人類進化や、ポストヒューマンの主題が現れるSFを経験することは、ゲームにしかできないことである。それは、どちらかといえばRPG寄りのゲームが物語・主題としてきたことだった。

シューティングはひたすら没入を志向し、神秘体験やトランスに近い何かに向かっていこうとする

没入を切断し、距離を置かせるタイプのジャンルはそのような自己批評性、メタ意識を持たせる方向を志向しやすい。それに対し、シューティングはひたすら没入を志向し、神秘体験やトランスに近い何かに向かっていこうとする傾向がある。それは批評の言語には乗りにくいものである。しかし、それはそれとて、SFとゲームが出会ったことによって生み出された一つの特異かつエッジなジャンルなのだ。シューティングゲームの歴史それ自体を、SF史の中に適切に組み込む必要があるのではないか。

おそらく、SFというジャンルの核心を、初期のSF作家のように「主題」「文明批評性」「物語」「思索性」に見出すのではなく、ガジェット中心に考えるようになっていくある時期以降のSF作家の傾向も、そのゲームの経験の影響から理解されるべきではないかと考えている。ゲームを適切にSF史に組み込む方が、おそらくSFの見通しは良くなるだろう。

※購入先へのリンクにはアフィリエイトタグが含まれており、そちらの購入先での販売や会員の成約などからの収益化を行う場合はあります。 詳しくはプライバシーポリシーを確認してください
More Like This
コメント