ゲームは “開発の歴史”が記されてこなかった――タイトーの三部幸治氏とスクウェア・エニックスの三宅陽一郎氏が『スペースインベーダー』の70年代末から90年代末のゲーム開発史を編み直す

日本のゲームAIの文脈と海外の文脈が融合するそのときに、新しい展開がある

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いまビデオゲームの歴史には、 “どのようにゲームが開発されてきたか?”の歴史が足りていない。

ビデオゲームは美術や文学、映画などと比べればまだ歴史が浅いのは確かだ。とはいえ、わずか数十年の歴史で驚異的な進歩と拡大を続け、現代の文化で重要な位置を占めるようになったジャンルでもある。

短い歴史ながら、その裏にはどういう流れが存在したのだろうか? 近年では、様々な企業が一般には公開されることのなかったゲーム開発の資料を収集・公開することにより、知られざるゲーム開発の歴史を編みはじめているのだ。

2021年12月14日から17日にかけて行われたシーグラフアジア2021では、そんな最新の活動結果となる「ゲーム業界における過去の技術に関する2つの講義――タイトーとスクウェア・エニックスの事例」の講演が行われた。

写真左:三宅陽一郎氏、写真右:三部幸治氏

講演には、スクウェア・エニックスの過去資料編纂プロジェクト「SAVEプロジェクト」の中心人物であるAI研究者の三宅陽一郎氏と、タイトーの技術顧問を務める三部幸治氏が登壇。“開発技術の変遷”をテーマに、1970年代末から1990年代の歴史の概観が語られた。講演の会場には資料も展示されており、今回のレポートは展示風景とお二方へのインタビューをお届けする。

発売済みのゲームに準拠した歴史は編まれていても、“ゲーム開発の歴史”が編まれてこなかった

まず三宅氏が現在のゲームの歴史の概観を解説。いま、ゲームの歴史の根拠とされるものが、市場にリリースされたパッケージを収集・保存して博物館にするケースや、ゲームの雑誌や記事を集めたものが主になっているという。

こうした活動の代表として、ルドン・ジョセフ氏が代表を務めるゲーム保存協会や、立命館大学ゲーム研究センターのRCGSコレクションなどが挙げられるだろう。

しかし一方では、市場に出回る完成したゲームのみを根拠に歴史とすると、肝心のゲームがどのように開発されてきたかの流れがなかなか見えてこないという。

三部氏にこうした歴史の状況を伺うと、少し忸怩たる反応が返ってきた。「80年代のゲーム進化を陰で支えたのがハードウェア技術でしたが、その進化の様子はあまり顧みられることはなく、開発背景は伝わりにくいなあと感じました」

当然ながら、ゲーム開発における重要な資料は各企業の内部にしかない。しかしゲームはひとタイトルを開発されるごとに、開発資料が極秘にしまわれたりしてしまうことも多く、技術が継承されにくいのだそうだ。さらに資料が破棄されてしまうことも少なくないため、過去の開発技術はより参照しにくい環境が生まれていた。

三宅氏はこれを「いわば開発プロジェクトごとにタコ壺化してしまう状況」だと語った。日本のゲームが飛躍的に拡大・進歩した70年代末から90年代のタイトルは、その活躍と裏腹に開発資料は封印され、皮肉なことに後続の開発者が歴史を参考にできない状況となっていたのである。

そこで近年では開発資料のアーカイブ化によって、これまで見えてこなかったゲーム開発における歴史の流れを明らかにしようとしているわけだ。

今回のスクウェア・エニックスによる「SAVEプロジェクト」では、社内のゲーム開発資料を収集し、アーカイブ化することで後世に伝えることを目的としている。今年のCEDEC2021では、プロジェクトについて詳しい講演が行われた。『ワンダープロジェクトJ』の資料をアーカイブする事例を取り上げながら、プロジェクトの内容を解説している。

このSAVEプロジェクトも独自に行われたわけではない。前例にバンダイナムコ研究所が行っている開発資料のアーカイブ事業がある。この事業の影響を受け、プロジェクトは立ち上げられたそうだ。

そもそも三宅氏がゲーム開発の歴史を編む必要に駆られたのも、シンプルに研究や開発の実務が滞ってしまった事情も大きいそうだ。

三宅氏は2004年にゲーム産業に入った当時から、AIについて調べようとしていた。ところが過去の開発事例の資料がほとんど見つからなかったのだという。なのでAI研究について、海外の情報に頼らざるを得なかった。GDCのようなカンファレンスを代表に、技術のシェアが活発だったからである。

三宅氏のゲームAIについての発言は、2017年に公開された電ファミニコゲーマーでのインタビューが有名だろう。この時点では「ゲームAIは海外主導で研究が進んでいた」という論旨で、日本ではあまり進まなかったと語っていた。

こう語った背景には、社内で過去の資料を参照できなかっただけではない。日本のゲーム業界で、海外におけるGDCのようなカンファレンスがまだ成熟していなかったこともあった。国内最大のカンファレンスであるCEDECも1999年にスタートしていたものの、当時はまだ小規模であり、現在のような規模になるまで年月が必要となった。

こうした背景の中、SAVEプロジェクトにて過去の開発資料を発掘し、参照したところ、なんと三宅氏の考えは覆されることになる。「日本でゲームAIの開発は進んでいなかった」わけでは決してなかったのだ。

今回展示された『ワンダープロジェクトJ』の資料からは、簡素ながらもAIの学習システムが実装されていることがわかったり、初代PSでリリースされた戦車アクション『ポップン・タンクス!』(1999)の資料からは、敵AIの詳細な挙動の仕様書が書かれていたりするのが確認できたという。こちらの詳しい話は後述しよう。

このように、これまでクローズだった日本のゲーム開発の資料を開陳し、分析することによって、ゲームAIをはじめとした、ある技術の流れやあるゲームデザインの流れが過去に存在しているのを確認でき、未来のゲーム開発に生かしていけるとのことだ。

日本のゲーム業界が勃興する70年代末から90年代までの開発史を編むための下地

こうしたゲーム開発史の叩き台として、今回シーグラフ2021の会場内にてSAVEプロジェクトの展示が行われた。

タイトー側からは『スペースインベーダー』(1978)の基板や仕様書の展示のほか、ファミコン時代のさまざまなソフトの展示に加え、スクウェア・エニックス側からは先の『ワンダープロジェクトJ』と『ポップン・タンクス!』の資料を展示。

こうした展示の意図には、日本のゲーム業界が勃興したアーケードゲームが中心である70年代末から、コンソールが全盛となってゆく90年代までのゲーム開発の歴史を概観することがある。

もちろん展示された開発資料の数やタイトルのセレクトは限定的なため、どこまで正確な歴史なのかという印象もある。とはいえ、まずは今後のアーカイブ事業を進めていく上での下地としていくことなのだろう。

最初期のビデオゲームは、エンジニアが基板制作からプログラム、グラフィックもすべて作り上げていた

さて、ゲーム開発の歴史の最初期とはどのようなものだったのだろう? 三部氏が『スペースインベーダー』開発当時の背景を解説した。

三部氏は1979年にタイトーへ入社して以降、アーケード時代からコンソールの時代、そしてモバイルゲーム初期までを見てきた、まさしくゲーム業界の勃興から今までを知る、生き証人のような方だ。直にゲーム開発の歴史を体感してきた人物といっていいだろう。

そんな三部氏は、70年代末期の開発環境をこう語る。「当時のゲーム開発者は、クリエイター兼エンジニアでした。ゲームデザインやグラフィックだけではなく、基板も自分で作るし、開発ツールも全部作っていました」

まさしく『スペースインベーダー』を開発した西角友宏氏こそゲームに必要なハードウェアからソフトウェアまで、ほぼひとりで作り上げた人物だった。本作はその歴史的な業績が高く評価され、ニューヨーク近代美術館に収蔵されている

西角氏はアセンブラによるプログラム仕様書から、敵インベーダーのドットの仕様書まで残していた。講演ではいくつかの資料が公開。この時代の資料で印象深いのは、すべてが手描きで行われていることだ。ドットのグリッドさえも定規で線を引いて作っていたことに時代を感じる。

三部氏によれば、70年代末にゲーム開発に携わった方は、他の企業でも西角氏と同じようにエンジニアをベースにしたクリエイターだったそうだ。三部氏は以前に自分と同世代である旧ナムコの社長を務めた石村繁一氏や元セガの社長だった佐藤秀樹氏たちと飲み会をし、さまざまな話をしたところ、やはり全員のキャリアの初めはエンジニアからだった。

当時は基板作りからゲームデザインまで、すべて一人で開発するのが基本だった。具体的には「1978年から1981年までは、一人で全部作る時代だった」とのことだ。

やがて80年代に入ると、技術環境が急速に進化する。CPU速度の増大、メモリの大幅な増加、そしてプログラム言語において高級言語が使われるようになった変化が起きる。

三部氏は80年代のゲーム開発技術において、とりわけ大きな転換点となったのは“スプライト技術”の登場だったという。

これはコンピュータ上で動く図形を表現するとき、動かす図形のための高速デジタル回路と背景のための回路を分離し、その後、ハードウェア上で合成することによって表示を高速化する手法だ。(平たく言えば、アニメにおける背景とキャラの関係みたいなものだ)

このスプライト技術がもたらしたのは、画面に高速で表示しつつ、メモリをあまり消費しないというコストパフォーマンスの高さであった。

『スペースインベーダー』の時点では、ビットマップ表示だったため、インベーダーが一歩動くたびに、インベーダーを描画するドットをひとつずつ消したり付けたりして表現していたため、メモリが大量に必要となった。

だがスプライト技術の登場以降、CPUとメモリの質が上がったのと相まって急速にビデオゲームの表現力が拡大してゆく。80年代のアーケードゲームはほとんどスプライト技術が使われ、2Ⅾゲームの全盛期を生み出した。それは90年代のポリゴン技術による3Ⅾ時代が到来するまで続く。

こうしてゲーム業界が活発になることで、当然ながら各社の技術競争も激しくなる。タイトーではエンジニアの教育に力を入れ始め、ハードウェア開発向けの教育や、プログラマー向けの教科書などが作られていったそうだ。

三部氏はこうしたゲーム業界が大きく拡大する80年代を総括して「開発が専門化した」ことを挙げた。すでに西角氏が一人で『スペースインベーダー』を作っていた時代と違い、ハードウェアやソフトウェアの設計は、専門のエンジニアやゲームデザイナーがそれぞれ行うという、今日のような分業体制で開発されていくことになる。

こうしてタイトーは80年代には大量のタイトルをリリース。当時の三部氏はマネージングディレクターとして、ハードウエアとソフトウェアの開発を理解していたことから多くのプロジェクトに携わっていた。

当時のハードウェアは非常に大事で、ゲームコンセプトと同じくらい重要なものだったそうだ。新しい表現をするには、当然進んだデジタル技術が必要となる。なので、まず実験的な基板を最初にプログラマーに渡してゲーム開発を行うプロセスも取られたという。たとえば広大な画面設計による筐体で度肝を抜いた『ダライアス』などは、そうして開発されたという資料が残っている。

アーケードゲームを開発し、リリースするプロセスもこの時期に固まっていた。ゲーム開発に1年から1年半をかけ、その後、実際にゲームセンターなどのロケーションに1,2週間ほど設置して、どれくらいインカムがあったかをチェックするロケーションテストを経てから宣伝し、市場に出す流れである。

また、この時代からアーケードゲームでお馴染みの仕様がいくつも実装。たとえばゲームオーバーになったとき、コインを入れてコンティニューするシステムや、ゲーム終了時にハイスコアで自分の名前を付けるシステムはこの時代に出来上がっていた。

やがてアーケードの時代から、本格的にコンソールの時代が拡大するゲーム機が登場する。そう、1983年にファミコンがリリースされたことだ。 

ファミコンはスプライト技術が優れたハードとして有名である。そしてアーケードで成功したゲームがほぼコンソールで成功していく流れとなるため、タイトーでも活発にファミコンの移植版がリリースされた。その後、2010年ごろにはCPUの速度は3万倍に、メモリも1000万倍に増加し、これらの進化は今日のゲーム機にそのまま生かされている。

こうした重要な開発の歴史が眠る資料は、現在、保存箱に収められ、タイトー社内にまとまっているそうだ。ただハードウェアの資料に比べてゲームデザインの資料の残存には差があるという。

90年代、2Dと3Dの分野で切り開かれていたAI技術

80年代にデジタル技術の飛躍的な進歩に合わせて、ゲームの表現力と規模も拡大していく。拡大に合わせてプログラムからグラフィックスからサウンドなど、開発の専門分野が分かれはじめる――というのは、現在にも繋がる流れだろう。

90年代にはさらに表現力と規模の拡大が進む。16Bit機であるスーパーファミコン(以下、SFC)ではより優れた2Ⅾグラフィックスが使えるようになったし、32Bit機のPSでは、3ⅮCGやムービーの実装を可能にした。

それに伴い、タイトルによっては開発スタッフにプロのアニメーターまで加わって、さらに豪華な表現を追うようになる。そうした進化の時代から、あらためて三宅氏が見出したのがゲームAI技術である。

三宅氏は「往年のゲームでAIを押し出しているソフトがいろいろあるが、実際のところは仕様書を見てみないことにはわからない」と語る。というのも、AIと見せかけて、実は中身がスクリプトで動いているものだった、というゲームも少なくないからだそうだ。

では『ワンダープロジェクトJ』は実際にはどうだったのだろうか? 本作のメインキャラクター・ピーノは、基本的には放っておくと自由に行動する。プレイヤーの指示でさまざまなアクションも行ってゆき、さまざまなアクションに対してプレイヤーはほめたり、叱ったりするフィードバックを行うことで、ピーノは行動を覚えていく仕組みだ。

三宅氏は開発資料から、実際にはどのようにピーノが行動を覚えていくかの仕様をチェックしたところ「これは今でいう報酬による学習ですね。ユーザーが教育してキャラクターの内部パラメーターが変わる仕様なので、AIといっていい」と判断した。

1994年の時点では、このようなAIゲームは新しいだけではなく珍しくもあった。これ以降、後続の作品が続くこととなる。キャラクターに道具の使い方を教育する「AIゲーム」の始まりの一つと言っていいのではないか、とも語った。

三宅氏は、90年代中期~2000年代初頭のAIゲームは英語圏では仮想的な生物を育てる『Creatures』や、ピーター・モリニューによるRTSの『ブラック&ホワイト』(2001)などがあった一方、日本では『ワンダープロジェクトJ』のほかに『がんばれ森川君2号』(1997)などが挙げられるという。

そんな日本のゲームAI開発史に連なるタイトルとして、敵AIの実装が画期的だったというのが『ポップン・タンクス!』だそうだ。

本作は『ケロロ軍曹』の吉崎観音氏がキャラクターデザインをした、3ⅮCGの戦車対戦アクションゲームである。ところが三宅氏は開発資料を読んで驚く。AIの挙動の実装について、まるで辞書のように分厚く書かれた仕様書が残っていたからだ。

三宅氏によれば、当時のエニックスが3ⅮCGのアクションゲームを初めて開発するにあたり、「どうやってAIを作るのか?」という痕跡が興味深かったのだという。本作に実装された敵AIは、ゲームAIのなかでは自律型AIとカテゴライズされるそうだ。つまり、敵AI自体が自分の感覚で集めた情報をもとに考えて行動する仕様だという。

そんな自律型AIの原型が開発資料に残されていた。戦車の前方の視野角をセンサリングし、プレイヤーを驚かせるような行動を取るなど、いくつかの指針が立てられていたという。

また地形を利用した行動の仕様も書かれており、三宅氏は「3DCGゲームの初期のゲーム設計にも関わる、AIのデザインがある。技術として新しいわけではないが、どうすればプレイヤーに “この敵は賢い”と思ってもらえるかを考えて設計されている」と評価していた。

筆者も『ポップン・タンクス!』は当時の3Ⅾ対戦アクションのひとつとしか思っていなかったので、本作に確固としたゲームAI技術があったというのは今回の取材で初めて知った。三宅氏も説明しながら感服する。「2000年以降であれば『F.E.A.R.』(2005)などの敵AIをGDCで勉強するのはわかるのですが、それ以前では何を元にAIを考えたのかは謎ですね」

ゲーム開発史の今後は

三宅氏はSAVEプロジェクトを通して、実は90年代の段階で自社にゲームAI技術があったことを発見していく。これまではプロジェクトごとに資料が封印されたままだったため、AI研究の開発の歴史を参照できず、流れが見えなかった。

流れが見えるようになったことで、『ファイナルファンタジーXV』(2016・以下FF15)にまで繋がるスクウェア・エニックスにおけるゲームAI開発史が浮かび上がってきたという。「過去をみることで、技術進化の流れが見えてくる」と三宅氏はSAVEプロジェクトの意義をまとめる。

「日本のゲームAIの文脈を、世界に発信していく必要があると思うんですよ」三宅氏は海外のゲームAIの文脈が公開されている一方で、日本ならではのゲームAIの文脈がまとめられることで、豊かな全体像が生まれるのではないかと考えている。

まだまだ日本のゲームAIの開発史は弱く、情報が足りていない状態だそうだ。先述したように、開発プロジェクトごとに技術も継承されにくく、ゲームAIの文脈が作られてこなかった。なので過去の開発資料の発掘を通して、いまからでも開発の歴史を編み直して行こうとしているわけだ。

「我々のゲームAIの文化を海外でも使ってほしいですし、我々も海外のAIの技術をいっぱい使っています。『FF15』はその総決算であり、日本と海外の文脈が融合するときに新しい展開があります」

今回は三宅氏ならではの、ゲームAIを中心とした開発史観をみることができた。今後は他社の開発資料もアーカイブすることができれば、より具体的な開発史が浮かび上がるという。

三宅氏は現段階における日本のゲームAIの傾向をこう語る。「キャラクターのAIではなく、ゲームそのものにインテリジェンスがあるのが特徴だと思います。それが仮想現実シミュレーションとしてのAIを作る海外とは違っています。日本のAIはプレイヤーを包むような、世界そのものにインテリジェンスが埋め込まれており、それはプレイヤーの心の動きの追跡やストレスコントロールとかいろんな言葉で言われるんですが、もっとさまざまなものがあると思います」

個人・少数制作によるインディーゲームの開発においても開発資料を残す意味はあるか

最後に余談ながら、筆者が追いかけているインディーゲーム界においても開発資料を残していく意味はあるか? と三宅氏にうかがってみた。

インディーゲームは個人制作ゆえ、自由に開発しているイメージはあるが、すでにゲーム市場の一角を担い、様々なアワードで評価される対象になるなど、歴史的にも重要な存在となっている。

三宅氏は「残しておく意味はあると思います」と答えてくれた。「なかなか開発している間は、資料が重要だと思えないかもしれません。大切なのは、いろんなゲームの資料が集まったときに流れが見えてくることなんですよね」

三宅氏は、これからのインディーゲーム開発者が自分の開発資料をどう捉えていくかについてはこうまとめた。「難しいかもしれませんが、あまり自分自身の仕事の見地から資料を観ないほうがよくかもしれません。あとで『日本のインディーゲームシーンとはなんだったのか?』を振り返ったとき、たくさんのタイトルの資料があれば点を線として繋いで行けるんですね。全体に貢献する気持ちが必要なのかなと思います」

ゲーム開発史をまとめるということは「利益じゃないんです」と三宅氏は言う。目的は開発者全員で情報を固めていくことであり、そうすることで大きな開発の歴史という潮流がみえてくるのだという。今後のゲーム開発史とは、開発する側がジャンル全体の未来に寄与することを考えることで、より豊かなものとなるのだろう、と思わせる講演となった。

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